昭和43年11月22日 朝の御理解

御理解 第28節
「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」



あー、真実の助かりとでも申しましょうかね。本当の助かり。本当の助かりを、おー、得るためには、人の病気災難とか、やっぱり、その中で、えー、世間で言う、難儀というものの、から、あー、抜け出るというかね。そういうような、あー、難儀の中から、抜け出るために、えー、抜け出るために、抜け出なければ、本当の、人間の助かりはないのだと。それには、辛抱が大事だと。井戸がえをするのに、七分、八分目で、根気をしてやめれば、まだ、水はいつまでも濁っているようなものだと。というふうに、教えておられますが、そのなかが、信心が、あー、止められずに、ただ、続いておるという信心がですね、何十年続いておるから、井戸は、清水になるといったようなおかげを受けておるという事はないのですよ。ね。何十年、信心は続いておるけれども、やっぱり、水は濁っておるような感じですね、その人の家を眺めてみると。そして、やっぱり災難も、おー、続いておる。だから、本当に、ここんところがですね。どういう信心を続けて行ったら、病気災難が根が切れるように、井戸が清水になるように、井戸がえをするように、さっぱりと、すっきりとするようになるだろうか。お互いが、さっぱりしたい。スッキリしたいわけである。ね。
小倉の初代、桂 松平先生の奥様ですよね。えー、二代の桂先生。娘のときに、いー、ちょうど、御本部から、えー、一山超えて、海岸のほうへ出ると、おー、さみと言う海岸、さみという小さい、えー、漁村、ね。漁師村があるとこです。もう、娘のときから、あー、病み袋といわれるほどにもう、身体中に色んな病気を持っておられた。そんなわけで、もう、若い、いー、美空で、皆のように、一生懸命に働くことが出来ん。だから、結局、朝から、神様参りをする。それであの、まあ、当時、えー、まあ、出社的な、あー、方が、さみの村におられてね、そこで、この、歯槽膿漏ですね、今で言う、歯茎が腐っていく病気。それを、そちらで、話を聞いて、それからそこの、御神酒を頂かれて、それで、その、歯槽膿漏のおかげを受けられた。それでそこで、あんたは、ここへ参ってくるよりも、本部の一山超えれば、大谷に、生神様がおられるから、そちらへお参りをして、その身体中のおかげを受けろと、おー、その教えられてから、それから毎日日参をされた。もう、来る日も来る日も、お参りをした。ね。そして、教祖様の御教えを頂かれ、そして、半ばに教祖様のお国替えになり、二代金光様、四神様のご神前について、信心の稽古をはげまれた。いつまでお参りしても、どれだけお参りしても、あの、おかげを頂かんもんですから、ある時に、金光様、私はこうやって、毎日お参りをし、人が、いわば、評判するぐらいにお参りをしよる。烏の鳴かん日はあっても、おー、あの人がお参りをせんという事はないと、言われるほどに、お参りをするけれども、一つもおかげは頂けん。どういう信心をさせて頂いたら、おかげ頂けましょうか。芹の根を水で洗うたように、すっきりと、さっぱり、おかげが頂けたら、どんなに有難いことであろうかと言うてその、んー、この頃お願いをなさっておられる。芹の根を水で洗うというのは、非常にすっきり、綺麗になるもんですね。真っ白しとりますからその、ただ、泥を水で洗いますと、ずっと、さっぱりと綺麗な芹の根を水で洗うたように、さっぱりと、身体の上におかげ頂けんものだろうかという訳なんです。だから今、どういう信心をさせて頂いたら良かろうかと、といって、お伺いを立てたときに、四神様が、この、仰っておられますですね。拝み信心、おかげ信心、ご利益信心、ね。お参り信心て言うて、信心にも、色々あるがなあ。いっぱし参ることじゃと、こう仰った。ね。拝み信心、ご利益信心、お参り信心と、色々信心はあるが、いっぱし参ることである。まあ、一生懸命参って来い。そのうちに分かると仰ったんですがねえ。そして、えー、桂松平先生の奥様に、まあ、あの、四神金光様のお仲人で、あの、なさり、なられたわけですけれども、まあだ、その頃までは、まあ、病気がちであった。その時、桂先生が仰っておられるのに、四神様、あの女は、えー、村では、あの病み袋というほどに、色んな病気を持っておるそうですが、というてまあ、(ふぐの念ですね?)まあ、心配をされたわけですね。そんな病人の嫁を貰ってと。そして、四神様は、幾ら病気があってもね、あのー、御用が勤まりゃ良いと仰った。もう、神様の、神の一言で決められて、お参りされて、そして、八十何歳までも、桂先生が亡くなられた後、何十年間、小倉の二代の教会長として御用が出来られた。みんなから、やはり、教母様として仰がれなさったですね。そういう、身体にその、病気を持っておられたけれども、いつの間にか、それこそ、初めの願いであられたように、綺麗さっぱりのおかげを受けられて、永い間の御用が出来られた。して見るとこの、あー、あの人は、病人だとか、ね。困った、例えば、持病を持っておりましても、おかげを頂いていけば良いという事が分かりますよね。どんなに綺麗で、健康であっても、ね。短命の人もある。だから、神様のおかげを頂けば、有難い事が分かります。ね。結婚するでも、健康である、先ず第一に健康がと、普通では申しますけれども、健康ではなくてもおかげを頂けば楽です。これは、私共の、家内でもそうでした。私のほうに嫁入ってくるときには、もう、夏でも足袋を履いとかなければいけませんでした。夏でも、さらし一反、腹に巻いておかなければ、ですね、胃痙攣ですか、そういうその病気があったんです。そら、結婚する前から、それが分かっておったんです、弱いということが。けれども、私、やっぱり、あの、おかげ頂きゃ良いと、こう思っておった。そうですね、あの、嫁って来てから、子供を持って、此の方というものは、たびも履きません、晒も巻きませんでした。もう、最近なんかは、眠るという時間すら、もう、本当に、もう、合楽では一番少ない時間を眠るです。一番寝よらんというのは、家の家内でしょう。それでも、まあ、あんなにこもう、痩せておりますけれども、病気で寝込んだというような事はございませんですもんね。ほどに、元気のおかげを頂いておる。もうあの、私共が結婚するときに、もう、あっちはあげな、はー、夏でもあーた、足袋履いとらんなん、晒一反、こう、腹に巻いとかんなんというこっで、どうするですかと、ね。例えば、そういう中傷がなかったじゃなかったんです、あったんです、やっぱり。ね。けれども、おかげ頂きゃ良いと。おかげで、子供も、七人も産みました。けれども、やはりおかげ頂いておった。おかげを頂けばいいのです。信心しておるうちに、いつの間にか、いわば、井戸は清水になるまでと仰るが、清水になった感じでございます。ね。お互いが、とにかく、井戸は清水になるまでと、ね。何かこう、もたもたしておるけれども、それはさっぱり、これは、健康だけの事じゃありません。経済の上でも、様々な難儀が、そこにさっぱりと、もう、あのことの心配だけはせんで良か。もう、体のことだけは心配せんで良か。あれだけの弱かった私がこんなに強うなった。あれだけあの時分に、経済に難儀をしておったのが、まあ、沢山な金はなくても、まあ、おかげで心配だけはせんで済むようになったというようにな所まで、さっぱりとこう、おかげを頂くために、私は、一番最後のところのですね、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよと、こう仰ってる。ここんところを一つ、いただかにゃいけません。皆さんの場合、どういうようなところに、現在、立っておられるだろうか。どういうところに、おられるだろうか。まあだ、あー、私の家内じゃないけれども、さっぱりと、まあ、こら、健康の上では健康であっても、何かにつけてですたいね。もう、健康のことだけは心配ない。もう、お金のことだけは心配ないというようなところまでは、おかげは受けておられないとこう思うのである。ね。それを、例えば、何十年続けてもですよ、そこんところが、頂けてないと、ここにあるように、ただ、止めんというだけではいけない。信心が続けられておるというだけでは、いつまでも、綺麗さっぱりというようなおかげにはならない。ね。そこの信心の内容をです、私は、ね。この、こういう生き方で進んでいけばというようなものを、一つ、頂かなければいけない。
私、今朝方、お夢を頂いた。まあ、どっか宅祭りか何かに行くのじゃないでしょうか、誰かがその、私を迎えに来てくださった。自転車で迎えに来て下さった。ところがその、非常にこう、道が悪いんです、ぬかるみのような道ですね。ね。ですから、せっかく自転車に、迎えに来てくださって、自転車に乗せていただいて行きよるけれども、道が悪いものだから、ところが降りていかなきゃ行けません。下りると、綺麗な下駄を履いてきておるけれども、ぬかるみですから、勿論、下駄が汚れ、足袋が汚れるといったような状態だった。そこを、その、十台あまりの自動車が、スーッとこう、あの、通り抜けていく。それで私は、その自動車を見てからです、ほんとにもう、あの自動車に乗れたら、あー、あげな自動車で迎えに来て貰うたら、とっても、汚れんですむのに、自転車でどん、迎えに来るもんじゃから、こげなふうで歩かんならん。足を汚さんならん。と、その自動車を見過ごして、そんなことを考えておるお夢であった。そして、私が、その思うことが、目が覚めて。ははー、あの、自動車に乗っていっておる人たちの姿が、あれは信心のない人達の姿だなと、こう思った。私達も、信心の薄いとき、いわば、信心のないような状態の時には、ああいうふうに、ざーっと自動車で乗っていくような状態であったろうけれども、信心をさせて頂くようになって、本当のことが分かって、いわば、井戸は清水になるまでの、通るところの信心を、一生懸命させて頂きよったら、さっさと、不動が出てきたり、汚いものが上がってきたりするようなところになっておる。まあ、信心のない人達の場合なんかは、その上澄みを汲んでいるような感じ。だから、いかにも、清水の水を飲んでおるようであるけれども、自動車に乗って、まあ、良かふうにしてはおるけれども、実際、事という事になったら、下からでんぐり返りでもしたら、汚いものがいっぱいなんだという感じ。おかげで、信心をさせていただくようになって、自転車ではあるけれども、乗せてもらえるだけのおかげを受けた。けども、そこは道が悪いから、まあだ、自転車にも乗られない、足も汚さんならんといったような状態にある。ははー、これが私を初め、合楽の信心しよる人たちのみんなの姿じゃなかろうかというふうに思うた。皆さん、そうですよ。きっとそうです。そして、この、御理解二十八節を頂きましてから、今の、ここん所を頂くのです。皆さんが、先に申しましたように、それこそ、芹の根を洗うたように、すっきりと、さっぱりと、何かにの上におかげを頂きたい。けれども、そういう、さっぱりとしたおかげを頂く事のために、ね。皆さんは、返って、さっぱりしない。返って、もたついておる。かえって、難儀なとを感じるようなです、ほんに信心がなかったっちゃ、あげん、言わんでんやって行きよる。例えていうならば。というようなのが、まあ、少しは羨ましいごたるようなものが、あるのが、皆さんの、合楽で、ま、一生懸命信心の稽古をしておられる方達の姿じゃなかろうかと、私は思うわけです。ね。皆さんでも、上澄みを汲んでおると、いや、信心がないなら、ね。おそらくは、その、自動車でさーっとこう、ぬけ、そこ、私の前を通って抜けていく、あの、通って行かれるようにですね。まあ、言うなら、とばしりこそ掛けられんけれども、とばしりかけながら、走っていく車のように、その車に乗れるおかげを受けておるかも知れんけども、それでは、ですけどもね。真実のというか、本当のおかげにはならない。信心によって、おかげを受けるということは、ね。それが本当に、そういう車に乗れるだけの力、ね。いわば、がたないのに乗っておる、と言うのが、信心のないものの姿じゃなかろうか。けども、本当に神様に許されて乗せて頂けれる、さっぱりとした気持ちで乗せて頂けれる、おかげを頂くためにです、ま、現在では、自転車と言うて、自分で踏むのじゃあない。自分の我力で行きよるのじゃない。自転車ではあるけれども、それに、乗せてもらえるだけのおかげを受けておるけれども、どっこい、道が悪い。そこで、乗ってはいかれん、下りて歩かせていかなん。そこで、足を汚したり、下駄を汚したりしておるような状態が、まあ、合楽の、まあ、本気で信心をなさっておられる方たちの、今、姿じゃないだろうか。そこで、ここで、二十八節から頂けるところはです、根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で願えとあります、ね。一心に、まめでというのは、ね。健康で、言うなら、私の家内やら、あー、小倉の、先代の奥様のことやらを申しますですね。あのような、病み袋とまで言われるほどの病人が、それこそ、夏は、さらしを一反巻いて、足袋を履いとかなきゃならないほどに弱かった、私共の家内がです。現在、あのように元気のおかげを頂いておる。ね。そういう、いわば、さっぱりとした、このまめの上に、健康の上には、そのようなおかげを受けておる。そこで、繁盛するよと仰る。繁盛するというのは、家が、裕福に繁盛していくことですね。そういうおかげも、いよいよ、頂けれるようなおかげ。桂先生の場合なんかは、そうである。ね。まめになられただけではない、名代の小倉の教会長として、永年、しかも、九十近くまでも長生きのおかげを頂かれて、沢山の人が助かり、ね。沢山の人から、教母様と仰がれるように、なところまで繁盛された。というようなおかげを頂くためにです、私共が、私が今朝から、お夢頂いておりますように、ね。例えば、自動車に乗って、そこを、ぬかるみの道を、さーっと、通っている人達よりも、実を言うたら、おかげを頂いておるんだという現実を、私共が実感してです、信心が無かったっちゃ、あげん繁盛しておる。そげんとが羨ましいごたるというような心やらは、それこそ、もう、本当に、本当の事が分からせて頂いたらです。ね。むしろ、そういう人達のことを、まあ、気の毒なことだと思えるくらいな信心を、一つ頂かせて貰うてです。私共は、もう一段、一心と信心をさせて頂いて、ね。自転車で迎えに来るのではない、自動車で迎えに来られるようなおかげ、を頂いた時こそがです。ちょうど、形の上においては、信心のない人のそういう人達と、同じようだけど、内容が違う。もう、心が清まる。心がさっぱりと、ね。芹の根を洗うたような心で、一日を過ごすことが出来るようなおかげを受けられる。
昨日、親教会の月次祭でございました。私は、いわゆる、会議がございましたから、案内を受けておりましたから、私はお参りをさせてもらいました。もう、時間が、あー、もう、逼迫してまいりますのに、誰も、自動車も来ませんもんですから、ならもう、バスで行こうじゃないかと言うて、豊美と二人で外まで出ました。出ましたら、まあ小さい、秋永先生が乗っておられるような小さい自動車ですけども、からの自動車が止まってから、あのー、私は久留米のほうに行きよるから、あっちのほうなら乗せていきますよと言うてから、乗せて下さった。ね。どっか、竹松かどっかの人と言っておられた。あー、ほんなら乗せてくださいと言うて便乗させて貰うて、何処まで行きなさっですかち。善導寺の松坂まで行きますと。そんなら、そこまで送ってあげましょうと言うて、まあ、送って下さった。おかげで、ちょうど時間に間に合った。帰りに私は、あー、こう、もー、この羽織やら取ってから、はまって今日は帰えりがけ、善導寺より歩いて帰ろうと思ってから、歩いて帰らせていただこうと思いよった。そしたらもう、教会から、昨日聞いてから、もう、電話掛けて貰うとったもんですきん、母が断っていただこうと言うたけれども、もう、そういう(近所?)で来ましたから、まあ、タクシーで帰ってもらった。ね。自動車は小型の自動車でしたけれども、やはり、あの、神様が本当に差し向けて下さったので、乗ってきたのがおかげですね。その、おかげの実感が有難いです。ね。それは、タクシーでも同じことですけども、それは、やはり、こう、ちょっとこう、不自然さというか、ね。だから、私は、一般の人はですね、その、言うならば、その、タクシーで帰ってくるようなもんじゃなかろうかと、私は思うんですね。私が、今日、皆さんに言っておるのは、ほんとに、さっと行こうと思うたら、そこに、目の前に自動車が止まって、さあ、どうぞお乗りくださいと言うて、乗せて頂くようなもの。神様の親切をしみじみ感じられる。神様の働きを、しみじみ有難いと思われる。そういう、あり方でのおかげを受けて行きたいと、こう私は思うのです。ね。そのためにはです、私共が、心に、もう一段、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよと。ね。まめで繁盛するよう、いよいよ、元気な心で信心せよと。その元気な心での信心の中にはです。信心のない人達が、まあ、いうなら、幸せそうにやっておるのを見てから、信心がなかったっちゃ、あげん、儲け出しござるといったようなね、まあ、羨ましいような心やらは、先ず、起こらないだろう。そして、自分が、ここまでは、もうおかげを受けておる。まあ、言うならば、自転車でも、自分で、我力で行こうとは思わない。神様のおかげで行きたいと思う。神様のおかげで行きたい。いや、神様のおかげを頂かなければ、真実の幸せにはなれないというところまで分かっておる。けれども、神様のおかげでと、分かれば、分かっただけにです、まあだ、現在では、自転車でお迎いを受けるぐらいのことであって、後ろに乗せて頂けるのだけれども、どっこい、道が悪いところでは、歩いても行かじゃならん、足も汚すし、おらなければならないというようなのが、皆さんの現状ではなかろうかと。ですから、その事も、なるほど、しろしい。けれども、それは有難い。そこで、元気な心で一心に、いよいよ、まめで繁盛するよう元気な心で信心して行かなければならない時ではないだろうかというのでございます。どうぞ、だから、今、皆さんに、求められるものはですね。いよいよ、元気な心で、ね。まめで繁盛するよう、一心に信心しなければならない時だという事を分らせて貰うて、ね。今は、いわゆる自分の我力で、皆さんの、そう思ってない、自分の自転車で行こうとか、思いよらない。その、自転車とても、後ろに乗せて貰うのですから、もう、自分の力で踏むのではない。自分の我力で行こうという、神様のおかげで立ち行こうとしているのである。神様のおかげで真実の幸せ、いわゆる、まめで繁盛するよう願うておる時なのである。ね。ですから、そこには、例えば、何にも知らんで、ね。ハイヤーを乗り回しておるというか、いかに、それは、自家用車を乗り回しておってもです、ね。それは、何とはなしに、ね。井戸は清水になるまでと仰る、清水になるまでの清水ではなくて、上澄みを、こう汲んでおるような感じのものであるという事を、よく分からせてもらって、信心あるものの、おー、ほんとのおかげ、真実のおかげ。それこそ、どのような中にあっても、心が、さっぱりと、綺麗にです。芹の根を洗うたような気持ちで過ごしていけれるおかげを頂くための、今、そこの過程のところを通っておる。ね。その道中である。だから、ここんところをです。一心に元気な心でといったようなものがなかったらです、何十年、信心を続けておっても、何時まで経っても、井戸は清水にはならないという事。ね。その、そういうような証拠はです、いうなら、私共の周辺にも沢山ある。長年、信心をずーっと続けてござるけれども、いっこう、おかげにならないというところが沢山ある。だから、そこんところを、皆さん、気付かせて頂いてですね、ね。いよいよ、徳の車にというか、徳の上にというかね。この世は徳の船に乗って渡れと、石橋先生が仰っておられるような、おかげを頂くための、今、過程だと分らせて貰うて、そこんとこを目指しての、信心が、いよいよ、元気な心で出来なければならんと思うのです。どうぞ。

中村良一
2005年5月8日